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陶芸5
美濃焼
美濃焼(みのやき、Mino Yaki - Mino Ceramic Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を産地とする陶器である。
1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代には「黄瀬戸」の原型が焼かれ始める。 室町時代瀬戸の陶工が戦火を逃れ美濃に入る(瀬戸山離山と言われる)。 桃山時代に「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となる。 江戸時代初期に青磁器風陶器「御深井」が焼かれる。 江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる陶器。 中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 - 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。
志野焼
志野焼(しのやき)は美濃焼の一種で、美濃(岐阜県)にて安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物。 赤志野や鼠志野など、いくつかの種類があり、同じく美濃焼の一種である瀬戸黒とともに重要無形文化財に指定されている。
室町時代の茶人・志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ、可児市久々利〜土岐市泉町久尻にかけて産出する耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけ焼かれる。 通常、釉肌には肌理(きめ)の細かい貫入や柚肌、また小さな孔が多くあり、釉のかかりの少ない釉際や口縁には、緋色の火色と呼ばれる赤みのある景色が出る。
志野茶碗で銘卯花墻(うのはながき、三井記念美術館蔵)は国産茶陶としては2つしかない国宝(昭和34年指定)の一つである(他の一つは本阿弥光悦の白楽茶碗銘不二山)。
志野焼の種類
無地志野
文字通り絵模様が少ない白無地。
鼠志野
下地に鬼板と呼ばれる鉄化粧を施し、文様を箆彫りして白く表しさらに志野釉(長石釉)をかけて焼く。 掻き落とした箇所が白く残り、鉄の成分は窯の条件などにより赤褐色または鼠色に焼き上がる。
赤志野
鼠志野と同じ手法ながら赤く焼き上がったもの。
紅志野
酸化第二鉄を含む黄土である赤ラクを掛けた上に鉄絵文様を描き、さらに志野釉をかけて焼いたもの。
絵志野
釉の下に鬼板で絵付けした上に志野釉をかけて焼いたもの。
練り上げ志野
赤土と白土とを練り混ぜ志野釉をかけて焼いたもの。
志野織部
大窯で焼かれた古志野と区別し、登り窯で焼かれたものを指す。
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織部焼
織部焼(おりべやき)は、桃山時代の天正年間(1573年-1592年)頃から、主に美濃地方で産する陶器。
名前の由来
千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産したことによる。
特徴
釉薬の色になどにより青織部、赤織部、黒織部、志野織部などがあるが、緑色の青織部が最も有名である。
形・文様
整然とした端正な形を好み、抽象を重んじる他の茶器とは違い、歪んだ形の沓(くつかけ)茶碗や、市松模様や幾何学模様の絵付け、後代には扇子などの形をした食器や香炉など、具象的な物が多い。
生産技術
登り窯の利用や、木型に湿らせた麻布を張り、そこに伸ばした粘土を押し付けるという手法で大量生産も行われた。
砥部焼
砥部焼(とべやき)は、愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器である。 一般には、食器、花器等が多い。 愛媛県指定無形文化財。 別名喧嘩器とも呼ばれる。
後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げた。
やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。 砥部焼の多くは手作り成形のため、全国的に見ても決して大産地や有名産地ではないが、独特の風合いが愛好家に評価されている。
なお、近年ブームの讃岐うどんの器としても砥部焼はよく用いられる。
歩み
砥部焼は、大洲藩・九代藩主、加藤泰候(かとう やすとき)の時代に、藩の財政を立て直すため、砥石くずを使った磁器づくりを命じたことに起源を発するといわれている。 命じられた杉野丈助(すぎの じょうすけ)が砥部の五本松という所に登り窯を据え、苦労の末に1777年(安政6年)にようやく白地に藍色の焼き物作りに成功したといわれる。 焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられた。
嘉永元年(1848年)、トンバリと呼ばれるレンガ造の窯が導入される。
明治期に入ると、廃藩置県により、工芸技術者の行き来が盛んになり、それまで各藩が抱え込み、門外不出とされた陶磁器作りの技術が流出し、瀬戸や唐津、あるいは京都などの当時の先進地の情報が砥部にもたらされるようになり、砥部焼も量産が可能となった。 明治5年頃からは松前(現在の伊予郡松前町)の唐津船で、販路を全国へと広げていった。 もともと、松前は海に面しており、小船を生かし沿岸の街を行き来する商人が居た。 ただ、松前は松山藩、砥部は大洲藩であり、住民の交流は乏しかったが、松前の商人が砥部焼の商品性に着目し、商品として扱うよう求めたものであり、これも廃藩置県の一つの副次効果といえる。
その後、輸出商品として、郡中港(現在の伊予港(伊予市))から出荷された時期もあった。
今日では、独立して窯を開く職人もみられ、また女性作家も増えているなど、日用工芸品としての道を歩んでいる。 2005年(平成17年)12月27日愛媛県指定無形文化財。 技術保持者として、酒井芳美氏(雅号・芳人、砥部町五本松)が認定される。
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上野焼
上野焼(あがのやき)は福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる陶器。 江戸前期に高名な茶人でもあった大名、細川忠興が小倉藩主となった際、朝鮮人陶工、尊楷(上野喜蔵)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まり。 江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられるほど、茶人に好まれた。 明治期には衰退の様相を見せたが、明治35年に復興、1983年には通産省(現在の経産省)指定伝統的工芸品の指定を受けた。
上野焼の特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であることである。 また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変(窯の中で釉薬が溶け、千変万化の模様を作り出すこと)を生み出すのが特徴で、絵付けはまず用いていない。
唐津焼
唐津焼(からつやき)は佐賀県唐津市で焼かれる陶器。 古くから一楽二萩三唐津として茶器として名高い。 分派の武雄古唐津焼と共に、日本の伝統的工芸品に指定されている。
歴史
唐津は古くから対外交易拠点であったため、安土桃山時代から陶器の技術が伝えられていたといわれ、現在も佐賀県の岸岳諸窯など至る所に窯場跡が点在する。 唐津焼の名称は、唐津焼積み出しの際、唐津港からなされていたことによる。 だが、唐津焼が本格的に始まったのは、文禄・慶長の役の頃、大陸から技術が伝えられたのがきっかけとされる。 朝鮮から伝えられたとの説もあるが、朝鮮半島には唐津焼に類似する陶器は無く、中国からの使者が伝えたという説が有力である。 草創期は食器や甕など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。 また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。 とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。
だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。 それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。 しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。 その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。 だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。 現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。
唐津焼の特徴
唐津焼の特徴は李氏朝鮮(一説に、華南)から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。 特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。 窯は連房式登り窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締める。 意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。
唐津焼の種類
唐津焼は時代によって様々な焼き物が焼かれた。 大きく分けて次のようなものがある。
絵唐津
器に鬼板と呼ばれる鉄溶液を使って花鳥、草木といった意匠を描き込んで、灰色釉など透明な釉薬を流し込み、焼成したもの。 土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す。
朝鮮唐津
李氏朝鮮の陶工から伝わった伝統的なスタイル。 黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉を下から掛けたもので、二つを交わらせて風景を表すもの。 上下逆の物もある。
斑唐津
長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったもの。 独特のざんぐりとした風合いは茶器に好まれる。
三島唐津
朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。 象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。
粉引(こびき)唐津
褐色の粘土を使用、生乾きのうちに化粧土を全面に掛け、乾燥させた後に釉薬を掛けたもの。
奥高麗(おくごうらい)
高麗茶碗の井戸、呉器、熊川風の造形の茶碗で、通常、無地である。 和物茶碗として極めて評価が高い。
瀬戸唐津
青唐津
黄唐津
彫唐津
刷毛目唐津
櫛目唐津
蛇蝎(じゃかつ)唐津
二彩唐津
緑色銅釉と茶褐色の鉄飴釉で松文などが描かれた。 産地としては武雄系唐津古窯などが知られている。 現在はあまり作られていない。
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有田焼
有田焼(ありたやき)は、「伊万里(いまり)」とも呼ばれる佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。 伊万里の名称は、有田焼積み出しの際、伊万里港からなされていたことによる。 泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。 作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。 また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、天皇家に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。 江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。 1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。
九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景がみられる。
「有田焼」と「伊万里焼」
有田、三川内、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。 現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。 また英語での呼称も "Imari" が一般的である。 「有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もある。
歴史
磁器生産の開始
肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まった。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰った。 肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った、その中の一人が李参平(りさんぺい、イ・サムピョン、一説には韓国の忠清南道金江出身)である。 彼は1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていた。
李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。 広く信じられているように日本で最初に磁器を焼いたかどうかまでは別としても、肥前磁器の発展に大いに貢献したことは確かであり、有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。
近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっている。 この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(藍九谷)を作っていた。 「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色一色で図柄を表わした磁器である。 磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、釉薬を掛けて焼造する。 当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。 一方で17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられる。
1637年(寛永14年)に鍋島藩が、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在の皿山を形作った。 この頃までの有田焼を骨董界ではしばしば初期伊万里と称する。 陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。
色絵磁器の登場・発展
その後1640年代に中国人によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになった。 伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっている。 ただし従来言われていた加賀国(石川県南部)での生産も、1650年代から20年間程ごく小規模に行なわれていた(この産地問題については、別項「九谷焼」を参照)。 なお、ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていた。
17世紀後半に生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。 この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、窯跡の発掘調査の結果によれば、この種の磁器は柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっており、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっている。 17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。
17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになった。 有田の金襴手は中国明代後期の嘉靖・萬暦期の金襴手をモデルにしている関係から、皿底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多いが、これは中国製のイミテーションを試みたとするより、デザインの一部として取り入れたものであると考えられている。
また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産した。 安価で流通したこれらの碗は、当時出現して人気を得た屋台でも食器として使用された。 当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶ。
一方、「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。 鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。 作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。 高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。 開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。
当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。 生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。 しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。 以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。 江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。 しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。 また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。
海外への輸出
磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。 このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。 これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。 これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。
こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい価格競争に晒されることとなる。 また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行なった事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。 最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。 今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。
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小鹿田焼
小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市の山あい、皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれる陶器。 その陶芸技法が1995年(平成7年)に国の重要無形文化財として指定され、2008年3月には地区全体が「小鹿田焼の里」として重要文化的景観に選定されている。
小鹿田焼は、江戸時代中期の1705年(宝永2年)若しくは、1737年(元文2年)に、幕府直轄領(天領)であった日田の代官により領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもので、福岡県の小石原から招かれた陶工の柳瀬三右衛門と日田郡大鶴村の黒木十兵衛によって始められた。 元は、享和年間に小石原焼の分流の窯として開かれていたものであるという[1]。 このため、小鹿田焼の技法には小石原焼と共通するものがある。
李朝系登り窯で、飛び鉋、刷毛目、櫛描きなどの道具を用いて刻まれた幾何学的紋様を特徴とする。 また、釉薬の使い方には打ち掛け、流し掛けなどといった技法が用いられる。 陶土を搗くための臼は「唐臼(からうす)」と呼ばれるもので、ししおどしのように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽いている。 その音は「日本の音風景100選」の一つにも選ばれている。
民芸運動を提唱した柳宗悦が1931年(昭和6年)にこの地を訪れ、「日田の皿山」と題して評価する内容の一文を発表したこと、さらに、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のため、1954年(昭和29年)、1964年(昭和39年)に滞在して作陶を行ったことにより、小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになった。
文化財
小鹿田焼の窯元は代々長子相続で技術を伝え、弟子を取らなかったため、開窯以来の伝統的な技法がよく保存されており、これが重要無形文化財に指定された大きな理由となった。 現在は10軒の窯元があるが、全てが開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の子孫にあたる。 窯元は、共同で土採りを行ったり、作品に個人銘を入れることを慎むなど、小鹿田焼の品質やイメージを守る取り組みを行っており、窯元によって構成される小鹿田焼技術保存会は重要無形文化財の保持団体に認定されている。
また、窯元がある皿山地区と棚田が広がる池ノ鶴地区が重要文化的景観に選定されている。
薩摩焼
薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、竪野系、龍門司系、苗代川系がある。 主な窯場は加治木町の龍門司窯、日置市(旧東市来町)の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯など。 「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれる。 豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、捕虜として連行されてきた朝鮮人陶工たちが、島津義弘の保護の下に発展させた。 1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に初出展され、欧米で流行したジャポニズム(日本趣味)に影響を与えた。 2002年(平成14年)1月に国の伝統的工芸品に指定された。
種類
白薩摩(白もん)
日置市(旧東市来町)美山地区にある苗代川窯で焼かれていた陶器。 藩主向けの御用窯で、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手が主である。 元々は苗代川焼と呼ばれ、薩摩焼とは名称を異にしていた。
黒薩摩(黒もん)
白薩摩に対して、大衆用の日用雑器として焼かれていた陶器で、鉄分含有量が多い土を用いるため、黒くなる。 繊細かつ優美な白薩摩に対し、野趣溢れ重厚な面持ちがある。 特に、黒ヂョカ(茶家)と呼ばれる素朴な土瓶は、焼酎を飲むときに好んで用いられる。
その他
毎年2月20日頃に「窯元まつり」、11月20日頃に「薩摩焼フェスタ」が行われる。
2007年11月、万博初出展140周年を記念し、フランス国立陶磁器美術館(セーブル美術館)において「薩摩焼パリ伝統美展」が開催された。
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