陶芸4

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    陶芸4

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    交趾焼
    交趾焼(こうちやき)は、中国南部で生産された陶磁器の一種。
    名称はベトナムのコーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船によりもたらされたことに由来する。
    正倉院三彩などの低火度釉による三彩、法花と呼ばれる中国の元時代の焼き物、黄南京と呼ばれる中国の焼き物や清の時代の龍や鳳凰が描かれた焼き物も広い意味では交趾焼である。
    総じて黄、紫、緑、青、白、などの細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物の事をさす。
     
    コーチという呼び名
    交趾焼は交趾、交趾写し、コーチ、こうちと呼ばれる事が多い。
    通常は交趾舟貿易により日本にわたってきた本歌と、写しものとして日本国内の主に京焼で生産されてきた色絵陶磁器全般の事を示す。
     
    技法
    生地は陶器、磁器で成形され、素焼き、または高温で焼き締める。
    次に交趾釉を施釉し、低火度焼成による焼成を経て完成する。
    彫刻、盛り上げ、椎泥、イッチン、貼付け、線刻、泥化粧などの下絵を施した生地に鮮やかな色釉がかかる。
     
    茶道との関わり
    交趾焼は主に茶の湯の世界で珍重され、香合がとくに尊ばれる。
    江戸時代に数寄者の間で作成された香合番付では、交趾の香合がその上位を占める。
    茶の湯で珍重されるという事で、京都において楽家や永楽善五郎がその写しものを制作した事から九谷焼や日本の京焼でもその写しが作られることとなり、その制作は全国で行われる。
    永楽が携わった紀州徳川家の偕楽園焼は紫と浅葱色と呼ばれるトルコブルーを基調にした法花の和製の作風である。
    青木木米は交趾の名品を多く残している。
    1943年(昭和18年)に交趾焼で技術保存作家認定を受けた二代赤沢露石(赤沢修三 京都市)がいる。
     
    台湾における交趾焼
    台湾には19世紀に中国の広東より民芸としてもたらされており、交趾陶、嘉義焼とも称される。
    主に寺院建築の壁面の飾り物として人物、瑞獣、植物をモチーフとされ、台湾での公式な贈答品として用いられている。
    中国の故事に"これを所有するものは名声を得る。
    "とある。


    出石焼

    出石焼
    出石焼(いずしやき)は兵庫県豊岡市出石町一帯で焼かれる磁器。
    国内でも珍しい、白磁を中心とした焼き物である。
    透き通るように白い磁肌に、浮き彫りや透かし彫りによる精緻な紋様が際だつ。
    また一切の釉薬を用いないのも特徴で、素地独特の味を醸し出している。
    出石は江戸時代の文化文政期より有田に倣った染付、赤絵などの色物磁器の生産が盛んであった。
    現在の出石焼きに対して古出石焼と呼ばれているものである。
    しかし次第に衰退し盛衰を繰り返した後、明治時代に勃興した盈進社が白磁を生み出すことに成功した。
    1980年3月に経済産業大臣指定経済産業大臣指定伝統工芸品に指定されている。
     
    丹波立杭焼
    丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は兵庫県篠山市今田町付近で焼かれる陶器、b器。
    主に生活雑器を焼いてきた。
    丹波焼、または立杭焼ともいう。
    起源は平安時代にまで遡るといわれ、信楽焼、備前焼、瀬戸焼、常滑焼、越前焼と並び六古窯の一つに数えられる。
    平安時代末期から鎌倉時代が発祥といわれ、登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すのが丹波立杭焼の最大の特徴である。
    ただし、高級品は登り窯によって作られるが、廉価の多くの陶器はたいていはガス窯で焼かれたものであり、見た目も品質も全く別物である。
    中世には轆轤を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られた。
    初期には壺や甕、すり鉢などを主に作っていた。
    江戸時代に入ると登り窯が用いられるようになり、大量生産品としてのすり鉢が堅牢であったため、17世紀には、中部、関東以北に急速に普及し、堺産のすり鉢が18世紀中盤以降に普及するまでは東日本で瀬戸と二分するシェアを誇った。
    一方で、小堀遠州等の影響により、茶碗、茶入、水指といった茶器の分野においても数多くの銘器を生み、京都や美濃焼に影響され、釉薬を用いた陶器が誕生した。
    江戸時代後期には篠山藩の保護育成などもあり、直作、一房、花遊、一此、市作など世に名を轟かせる陶芸家を輩出した。
    窖窯時代には小野原焼と呼ばれていたが、登り窯時代に至って、現在の呼び名である丹波焼あるいは立杭焼の呼称が確立し、1978年(昭和53年)には丹波立杭焼の名称で国の伝統的工芸品指定を受けた。
    現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区の窯元は約60軒あり、今田以外にも丹波立杭焼を名乗る窯元が多数ある。
    東京ドームで毎年開催される陶器展であるテーブルウェア・フェスティバル(読売新聞社、株式会社東京ドーム主催、経済産業省、東京都後援)に毎年のように出展している。


    赤膚焼
    赤膚焼
    赤膚焼(あかはだやき)は奈良県奈良市、大和郡山市に窯場が点在する陶器である。
    草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。
    江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。
    小堀遠州が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。
    赤膚焼は名の如く、器肌に赤みを帯びている。
    名の由来はその器肌という説と地元の地名から来たという二説がある。
    その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。
    奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出している。
     
    布志名焼
    布志名焼(ふじなやき)は島根県松江市玉湯町にて焼かれる陶器。
    江戸時代に松江藩の御用窯として開かれた窯場(雲善窯)で、大名茶人でもあった松平不昧公の好みを反映した茶器が焼かれた。
    後に民窯の船木窯も開窯し、黄釉や出雲青地と呼ばれる青釉の日用雑器を焼き、一時は海外への輸出も盛んに行われるほど隆盛を極めた。
    その後衰退するが、昭和になってバーナード・リーチや河井寛次郎、浜田庄司らの指導、交流の元に民陶として復活、再興を遂げた。
    リーチの影響を強く受けているため、英国のガレナ釉(鉛の硫化物)に似た黄釉、飴釉などが用いられ(英国でガレナ釉を再現する際、布志名焼が参考にされた)、英国式のスリップウェアという手法を用いて焼かれる。
       

    備前焼
    備前焼
    備前焼(びぜんやき)とは、岡山県備前市周辺を産地とする陶器、b器。
    備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。
    同地区で数多く見られる煉瓦造りの四角い煙突は備前焼の窯のものである。
     
    歴史
    平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。
    鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。
    当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。
    この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。
    室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。
    備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。
    この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。
    明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。
    陶陽はもちろんのこと弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。
    第二次大戦時には、金属不足のため、備前焼による手榴弾が試作されたこともあるが、実戦投入はされなかった。
     
    特徴
    釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出され一つとして同じ模様にはならないのが特徴。
    現在は茶器・酒器・皿などが多く生産されている。
    「使い込むほどに味が出る」と言われ、派手さはないが飽きがこないのが特色である。
    備前焼の魅力である茶褐色の地肌は「田土(ひよせ)」と呼ばれる、たんぼの底(5m以上掘る場合もある)から掘り起こした土と、山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を含む土で焼かれるからである。
    土の配合にもある程度比率が存在するが、各々の土を寝かす期間も存在し、出土する場所によっても成分が違ってくる。
    よって、作るには熟練の技が問われてくる。
    なお、金重陶陽は10年寝かせた土を使っていたとされる。
     
    窯変の種類
    胡麻(ごま)窯焚の最中に、薪の灰が融けて生地にくっ付く事によりできる模様。
    桟切(さんぎり)金・青・灰色などのさまざまな模様。
    火襷(ひだすき)藁を巻き鞘などに詰め直接火の当たらない場所で焼くことによって、生地全体は白く、藁のあった部分は赤い模様になる。
    赤と白のコントラストが端麗で人気も高い。
    牡丹餅(ぼたもち)焼成時に作品の上にぐい呑みなどを置くことで、該当部分が白くなる。
    そのカタチが牡丹餅のようになることからこの名がつけられた。
    青備前(あおびぜん)通常備前焼き締めは酸化焔であるが、還元焔になることで青くなる。
    青備前は窯中で空気があたらない箇所で焼成されると出来る。
    また、初代藤原楽山が考案した塩青焼という塩を用いた手法でも、独特の青備前がつくりだされる。

    不倫
    萩焼
    萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器。
    一部長門市・山口市にも窯元がある。
    長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。
    古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。
    萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。
    貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。
    素地の色を生かすため、模様は地味だが根強いファンが多く、市内界隈には新規を含め、多数の窯元が存在する。
     
    歴史
    萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。
    よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。
    坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。
    後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出したが、李勺光の系統、山村家は後に断絶した。
    一方で、明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立し、萩焼を中興している。
    文化財の指定は意外と時間がかかっており、2002年1月に漸く、経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けた。
     
    大谷焼
    大谷焼(おおたにやき)は徳島県鳴門市の大谷地区で作られる陶器である。
    寝轆轤と呼ばれる独特の轆轤を用いて制作される大甕で知られる。
    寝轆轤は相手が寝ながら足を用いて回す仕掛けで基本的に大甕作りは二人の呼吸が合っていないと作れない。
    なお、この大甕は阿波地方の特産である藍染めに欠かせない道具であり、藍甕と呼ばれる。
    大谷焼は元々、染付磁器が焼かれていた。
    だが、経営悪化で廃窯となり、これを藍商人であった賀屋文五郎らの手によって再興、信楽の陶工の協力もあって藍染の需要に見合った大甕を焼くことになったのである。
    明治に入ると化学染料の開発、生活様式の変化に伴い、藍甕の需要は激減、不振に陥った。
    それでも脈々と大甕作りは続けられ、今日に至っている。
    また、現在は壺、皿、徳利、片口、茶器などといった小物を焼いている窯も見られる。
    2003年(平成15年)の9月に経済産業省指定伝統的工芸品となった。
    こんど不倫旅行を計画してみたい。 不倫旅行ならどこに行くのがいいのだろうか。

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