陶芸3

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    信楽焼
    信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に作られる日本の伝統陶磁器、b器で、日本六古窯のひとつに数えられる。
    一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。
     
    信楽焼とは?
    信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。
    信楽焼は、長い歴史と文化に支えられ、この地の伝統的な技術によって今日に伝えられ、日本六古窯のひとつに数えられている。
    中世末期頃より窖窯によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められ、日本独自の陶磁器産地としての歴史が展開してきた。
    信楽焼の特徴は、信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わびさび”の趣を今に伝えている。
    信楽焼ならではの素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともに「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきたのもその所以ともいえる。
    江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、一躍全国の需要をまかなうほどに大きな成長を遂げた。
    その他、神仏器や酒器、茶器、灯火具などの小物陶器や壺、火鉢などの大物陶器が生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。
    昭和の時代に入り、1950年代後半から1970年代にかけては、高度経済成長により電気や石油暖房器具の開発・普及の中で、生活水準が向上するなど生活様式の変貌にともない、信楽焼も火鉢の需要が減退するなど一大転機に見舞われたが、伝統技術と職人の智恵が火鉢の技「なまこ釉」を取り入れた植木鉢を誕生させ、高級盆栽鉢や観葉鉢が生産の主力となり、高い評価を受けるに至った。
    その後、水甕、種壺、茶壺、茶器、徳利、火鉢、植木鉢、花瓶など大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残し、今日に至っている。
    現在信楽では、植木鉢、食器といった日用陶器や建築用タイル、陶板、タヌキ、フクロウ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器などが生産され、私たちの生活に根ざした陶器が造られ、需要に対応した技術開発が行われている。
    信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
    信楽は、奈良、山城などの畿内と東海地方とを結ぶ交通路でもあり、茶湯の中核として発展した京、奈良に近いことから、後に茶陶信楽焼が発展した大きな要因と考えられている。
    また、焼き物に良好な陶土が豊富にあり、陶工たちにとっても理想郷だったといえよう。
    信楽焼は、1976年(昭和51年)に国から伝統的工芸品の指定を受け、今日に至っている。


    信楽焼の特徴

    信楽焼の特徴
    信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色や、窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。
    古信楽にはしばしば見られる特徴的な窯変の現象もある。
    器面の素地が荒く、細かな石粒(石英粒や長石粒、珪砂)などが多く含まれている事も特徴の一つといえよう。
    信楽焼の焼かれた甲賀地域(滋賀県最南部)は、伊賀地域(三重県)と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれるが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽特有の土味を発揮して、素朴であたたかい情感は、この古琵琶湖層の粘土にあるといえよう。
    灰釉の他にも、植木鉢や火鉢に見られる「なまこ釉」など、絵付の商品が少ないためか釉薬の種類が多いことや、大物づくりの成型、乾燥、焼成技術なども信楽焼の代表的な特徴である。
    また、作家によって、焼き〆や粉引など実にバラエティーに富んだ焼き物を楽しめる事も信楽焼の特徴に挙げられる。
    従って、現代の信楽焼は様々な技法が用いられる個性あふれる器であると言えるだろう。
     
    伝統工芸品としての信楽焼(技術・技法)
    陶土は、水簸(すいひ)せず、製造すること。
    成形は、轆轤(ろくろ)成形、押型成形または手ひねり成形による。
    素地の模様づけをする場合には、「松皮」、「虫喰(く)い手」、「布目」、「印花」、「線彫り」、「櫛描」、「トチリ」、「掻き落とし」、または「化粧掛け」によるものである。
    絵付は、手描きによる下絵付。
    この場合、顔料は鬼板または呉須を使用。
    釉(くすり)掛けをする場合は、「重ね掛け」、「流し掛け」、「ろう抜き」、「イッチン」、「片身掛け」、「吹き掛け」、「はけ掛け」、または「はけ目」による。
    素地の模様付け、絵付および釉掛けをしない場合は、登窯または穴窯による自然釉または火色を現出させる。
     
    狸の置物について
    信楽焼の店の前に所狭しと置かれた狸の置物信楽焼の狸の置物の歴史は比較的浅く、明治時代に陶芸家の藤原銕造氏が作ったものが最初と言われている。
    1951年(昭和26年)、昭和天皇が信楽町行幸の際、たくさんの狸たちに歓迎されたことに感銘して歌を詠んだ逸話によって、全国に名が知られるようになった。
    縁起物として喜ばれ、狸が「他を抜く」に通うことから商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。
    福々とした狸が編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利左手に通帳を持って突っ立っている、いわゆる「酒買い小僧」型が定番となっている。
    今では狸の置物は、信楽焼の代名詞のような存在となり、信楽へのアクセス路線である信楽高原鐵道の車体には、タヌキのキャラクターが描かれている。
    サントリーが発売するウイスキー、オールドは黒い瓶と白のラベルがコントラストが、信楽焼の狸を連想させることから、愛飲者から「タヌキ」の愛称をつけられている。
      

    湖南焼
    湖南焼
    湖南焼(こなんやき)とは1851年(嘉永4年)-1854年(嘉永7年)の間に、滋賀県大津市長等山下、札之辻、または三井寺下鹿関町で焼かれた陶磁器である。
     
    歴史
    1851年(嘉永4年)に円満院門跡覚淳法親王の支援により、永樂保全が開窯する。
    又色々な階層の人々に接して「河濱焼」、「三井御浜焼」、「長等山焼」などを試みるが、1854年(嘉永7年)保全の死去により廃れる。
    伝来品は数少ないが保全最晩年の作として名品の類は多く現在高い評価を得ている。
    作風としては祥瑞、古染付、赤絵、金襴手などが多く遺存する。
    2005年(平成17年)から山田青月により再興され現在に至る。
     
    特徴
    伝来品は茶道具(茶道)、煎茶道具(煎茶道)、雑器など様々な物が現在伝世している。
    又、短期間で住居を移転し、たびたびに作風も変化している。
    主な作風として染付磁器、赤地金彩、鉄絵陶器が多い、ただ特筆するのは金彩の作品が多い事である。
    豊富に金を使う事によって何を意図したか不明であるが、近世最後の名工としての自負が感じられる。
    又、滋賀県立陶芸の森に所蔵されている「金襴手龍文馬上杯」などは同時代の焼物には類を見ない形で、当時西洋より輸入されたガラス器の影響を受けたものと考えられる。
    晩年、息子和全と不仲になり京都を離れ地方を流転するが、強い個性ゆえ他と交えることが出来なかったのであろう。
    湖南焼の特徴と云えば保全の個性的な創造力と云っても過言ではない。
    それ故にこそ現在まで作品の力が衰えず魅力を保っている。
    又,紀州徳川家の偕楽園焼、摂州高槻城主、永井直輝による高槻焼をはじめ各地の大名や門跡寺院など、各地の御庭窯に招かれて指導にあたったことは陶技の伝播を考える上で陶磁史上に不動の足跡を残した。
    概説 :湖南焼ハ永楽保全江州石山ノ辺長等山ノ土ヲ取リ製スル所ト云ヒ或ハ同所ニ窯ヲ開キタリトモ云フ何ガ真ナルカ詳カナラズ其製スル所磁器染付多シ裏面ニ湖南ニ於テ永楽之造ト記セリ 附シテ云フ永楽ノ家ニ暫々書ヲ寄セテ問フモ更ニ得ル所ナシ (陶器類集1−3、高木如水著)著作権:文化庁長官裁定、裁定年月日:2006.1.23    

    京焼
    京焼
    京焼(きょうやき)は日本の陶磁器の一種。
    粟田口焼、御室焼など京都で作られる作品の総称となっている。
    一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴。
     
    京焼の始まり
    近年の研究では、慶長年間初頭の1590年代末には京焼の生産が始まっていたと考えられている。
    この頃の作品については不明な点が多いが、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されていて、技法やデザインが多様なことが特徴である。
    この時期以前の京都は三条付近に陶磁器の問屋が集中していたものの、本格的な生産は行われていない。
    ただし、天正年間以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していた。
    緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられている。
     
    色絵陶器の成立
    17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになった。
    具体的には、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られている。
    また、この頃に黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。
    京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永年間には粟田口で生産を行なっていた。
    ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られた。
    同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには存在が確認されている。
    これに続いて御室焼、御菩薩池焼、修学院焼なども作られた。
    このような中、慶安3年(1650年)5月25日に金森宗和が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。
    さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。
    調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した有田焼以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。
     
    18世紀以降
    野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず製陶から手を引いた。
    しかし仁清から直接技法を学んだ尾形乾山は優れた作品を多く残した。
    また、永樂了全より後の永樂家は保全、和全など優れた陶工を輩出し、千家に作品を納めて今日に至る。
    技術的にも重要な存在としては奥田頴川が挙げられる。
    頴川は京焼として初めて磁器を製作し、この後を受けて青木木米や仁阿弥道八らも磁器の作品を多く残した。
    明治維新後は体制や文化の変化に伴って茶陶の需要が激減し、廃業した者も多い。
    また、陶工の一部は日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えた。

    セフレ
    楽焼
    楽焼(らくやき)は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤(けろくろ)を使用せず手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後焼成した軟質施釉陶器。
    狭義には樂家の歴代当主が作製した作品を示し、楽茶碗などとも呼ばれる。
    広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。
    これらには樂家の手法を得た金沢の大樋焼や京都の玉水焼なども含まれる。
    千利休らの嗜好を反映した、歪んで厚みのある形状が特徴である。
    茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される。
     
    歴史
    天正年間(16世紀後半)、瓦職人だった長次郎が千利休の指導により聚楽第を建造する際に使用された土を使って焼いた「聚楽焼」(じゅらくやき)が始まりとされる。
    二代目・常慶の父、田中宗慶が豊臣秀吉より聚楽第からとった樂の印章を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となった、との説が広く知られる。
    正統な楽家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯という。
     
    特徴
    黒楽
    初期の製法としては、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干しし、乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから1000℃程度で焼成する。
    焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。
    これは美濃焼と共通する手法である。
    天正9年(1581年)〜同14年(1586年)頃に長次郎によって黒楽茶碗が焼かれたのが始まりである。
     
    赤楽
    赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800℃程度で焼成する。
    樂家と関わりの深い本阿弥光悦や、樂道入の作品などが有名である。
    最近様子がおかしい セフレ関係も終わりに近いのかもしれない。

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