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陶芸
陶芸(とうげい、Pottery)とは、粘土に造形を凝らしてこれを高温の窯で焼成することにより陶磁器をつくる技術のこと。 焼きものとも呼ばれる。
造形方法には轆轤(ろくろ)の上に置き、手や足で回しながら、両手で皿や壷などの形をつくっていく方法や手びねりという方法、或いは型を用いて土の形を整える方法などがある。
焼き方には、窯を用いない「野焼き」や、七輪を用いる「七輪陶芸」などという手法もある。 土の種類やこね方、釉、そして焼く温度など、様々な要素が作品に貢献する。 したがって、世界中にいろいろな技法が存在する。
主な陶芸品の産地
平清水焼
平清水焼(ひらしみずやき)は山形県山形市平清水で焼かれる陶磁器。 江戸後期の文化年間に地主の丹羽治左衛門が茨城からの陶工、小野藤次平を招いて、地元千歳山の土を使って焼かせたのが始まり。 伝承の上では慈覚大師が千歳山の土を使って、焼き物を教えたとされている。
現在、6つの窯元があるが一般に知られているのは青龍窯の「梨青瓷」「残雪」である。 梨青瓷は、地元の土に含有されている硫化鉄が、還元炎焼成によって気化、釉薬の中に溶解すると梨の肌のような青白色の斑点が生じ、独特の風合いを醸し出す。 ブリュッセル万国博覧会の出展で受賞し、一気に平清水の名は上がったといわれる。 「残雪」は純白の白釉を掛けることによって、黒色の斑点が浮き上がることで名付けられた。 他にも撫青瓷の平吉窯、「白衣」といわれる化粧掛けや「白砂」を得意とする天沢窯など6つの個性的な窯場がある。
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大堀相馬焼
大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)は、福島県浜通りの双葉郡浪江町大堀で焼かれる陶器。 単に相馬焼とも呼ばれる。
江戸時代の元禄年間に、相馬藩士の半谷休閑が地元で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのが始まり。 浜通り北部に当たる相馬藩領は、相馬野馬追の伝統があるため、藩主相馬一族の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として好まれる。
相馬市の相馬駒焼は専ら藩への献上品として親しまれたのに対し、この大堀相馬焼は大衆向けの民窯として親しまれた。 とりわけ、相馬藩は特産物として奨励したため、江戸末期には100軒近い窯元が誕生し、中には農作との兼業も見受けられた。
明治に入るとすっかり衰えたが、昭和に再興、1978年には国の伝統的工芸品の指定を受け、現在に至っている。
特徴
青ひび
鈍色の器面に広がる不定型なひびのことで、鉄分を含んだ釉薬を用い、還元炎焼成後に冷却するために生じる。 その後、ひびに墨を塗り込むために黒く見える。
走り駒
大堀相馬焼の特徴でもある意匠。 走り駒とは名の如く、疾駆する馬のことで、躍動感溢れるその勇姿は多くの人を魅了してきた。
二重焼
大堀相馬焼の湯呑みは冷めにくいといわれるが、その原理に相当する技術。 轆轤による成形の段階で、外側と内側を作っておき、焼成前に被せることで行われる。 この技術を用いた焼き物は大堀相馬焼以外ではまず見られない。
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会津本郷焼
会津本郷焼(あいづほんごうやき)とは、福島県会津美里町(旧会津本郷町)周辺を産地とする陶器及び陶磁器である。 会津本郷せと市が毎年8月第一日曜日に開かれている。
歴史
1593年に領主である蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりである。 17世紀中頃に藩主の保科正之の求めに応じて瀬戸から陶工・水野源左衛門が呼ばれて本格的に焼き物の基礎を築いた。 1800年には有田や京都で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の製法を伝え現在の会津本郷焼の原型が完成する。 現在は大堀相馬焼(福島県双葉郡浪江町)についで窯元17と東北2位の規模を誇る、1993年には通商産業省から伝統的工芸品産地として指定される。
特徴
会津本郷焼で使われる釉薬に「飴釉」がある。 飴釉は文字通り飴色で光沢を持っている。 この飴釉を使った代表的な陶器が「鰊鉢」で古くからニシンの山椒漬けに使われてきた。 また、磁器を製作している窯元も多いが、とりわけ会津藩主保科正之が弓隊を配し開拓させた集落地である御弓新田(現在の新町)の唯一の磁器の窯元となった佐竹富太郎の次男富三郎が明治5年に分家し、富三窯を開窯し、4代目富三は、日本原産の花椿をモチーフにし、染付の技術技法とともに会津焼の伝統を現代に生かすデザインを創案した。
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笠間焼
笠間焼(かさまやき)は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶磁器。
江戸時代中期(安永年間1770年代)から作られ始めた。 名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている。 のち笠間藩主の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。 幕末から明治にかけては江戸に近い利点から、大量生産の機会を得て技術者や従事者も飛躍的に増えた。 陶器商田中友三郎による「笠間焼」の広報・販路開拓が功を奏したという。 以後、時代の転換にともなって生産品の変化などを経て、現在では300人に近い陶芸作家や窯元のいる窯業産地となっている。 関東地方では、益子と並ぶ大きな窯業産地として知られている。
益子焼
益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器。
毎年、ゴールデンウイークと11月3日前後に「益子大陶器市」が開催され、500を越える店舗が出て賑わっている。
歴史
益子焼は江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことによりはじまったとされる。 当初は水がめ・火鉢・壺などの日用品が主に製作されていたが、1927年より創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、全国に知られることとなる。 1979年には通商産業省(現:経済産業省)より、伝統的工芸品に指定された。 また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動によって、海外での評価も高い。
特徴
益子焼は石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。 また、材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。
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九谷焼
九谷焼(くたにやき)とは、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。
歴史
古九谷
大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を 有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。
青や緑を多用した華麗な色使い(青手九谷)と大胆で斬新な図柄が特色の「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた。 有田の窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった。 しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もあり、産地問題はいまだ決着を見ていない。
再興期
古九谷の廃窯から、約一世紀後の文化四年に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山 (現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。 これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され今日まで主要な採石場となった。 これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。
中興の祖
九谷庄三(くたにしょうざ,文化13年(1816年)-明治16年(1883年))は、寺井町(現在の能美市寺井町)の農家に生まれた。 17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。 後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現在の志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。 後の九谷焼に多大な影響を与える。 26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。 西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。
新九谷
明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると 同時に西洋の技法も入り込んだ。 1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子を始めとする 置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が、石膏で作られるようになり量産化が進んだ。 また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。 1887年(明治20年)金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。
作風
飯田屋風 天保の頃、宮本屋窯の飯田屋八郎右衛門が焼いた赤絵のものを赤九谷とも言う。
古九谷風 赤・黄・青(緑)・群青・紫の五色を使った重厚な五彩色の構図が特徴である。
木米風 赤地の上に中国風の人物画が描かれる。
吉田屋風 古九谷風で使われる五色のうち赤色を使わない。 青九谷とも言う。
人気があるのは何故か? 熟女はやっぱりいいものです。
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